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津地方裁判所四日市支部 昭和34年(タ)1号 判決 1962年11月08日

原告 加藤志の(仮名)

被告 加藤嘉吉(仮名)

主文

原告と被告を離婚する。

原、被告間の長女加藤幸子の親権者を原告と定める。

被告は原告に対して金七十万円、およびこれに対するこの判決確定の日の翌日から完済に至るまで年五分の割合による金員の支払いをせよ。

原告のその余の請求を棄却する。

訴訟費用はこれを二分し、その一を原告の、その余を被告の、各負担とする。

事  実<省略>

理由

いずれも真正に作成されたことに争のない甲第一号証、乙第一号証、および証人近野いし、同近野進、同加藤嘉貞、同加藤とみ子、同加藤嘉利、同加藤友子、同山田憲一の各証言、および原、被告各本人尋問の結果、ならびに弁論の全趣旨を合わせて考えると、次の事実が認められる。

(一)  被告(明治三二年六月一一日生)は先妻昌枝が昭和二〇年二月二六日死亡したので、知人の仲介で知つた原告(大正六年三月三〇日生)と数箇月間交際した後、昭和二三年四月二日挙式して事実上の婚姻をし、昭和二四年一〇月三日、原、被告間に長女幸子が出生し、同月一六日、原、被告の婚姻の届出がなされた。

(二)  被告には先妻昌枝との間に長女雪子(大正一五年二月二三日生)、長男嘉利(昭和五年二月二七日生)、三女智子(昭和一〇年七月二二日生)、四女加代子(昭和一二年六月二九日生)、五女友子(昭和一五年七月一六日生)の五人の子があり、原、被告が結婚(事実の婚姻)した当時、右のうち長女雪子は既に山田憲一と結婚して別居していたが、その余の子は被告と被告の現住所に同居しており、その後四女加代子は昭和三二年一一月、三女智子は昭和三三年四月、それぞれ結婚するまでの間、被告、嘉利、友子は原告が昭和三三年六月一八日夜その実家である現住所へ戻るまでの間、昭和二五年一一月頃から昭和二六年五月末頃までの約七箇月間を除いては、原告と同居していた。

(三)  被告は原告と結婚する前からその居宅において、弟嘉貞および雇人一名位を使つて肥料販売業、煙草小売を営んでいたが、原告と結婚してからは、人手不足のため一時休業していた日用品雑貨の小売業を居宅の傍の店舗を使用して再開したので、原告は被告の家庭の日常の家事に従事するほか、右日用品雑貨販売店の販売、店番にも主となつて従事した。そして被告の右営業は通常午後八、九時頃まで行われ、被告はその後入浴、営業に関する帳簿の記帳などをしてから就寝することにしていたので、原告の就寝時間もこれに伴つて割合遅く、午後一一時頃になるのが常であり、時には午後一二時を過ぎることもあつた。一方朝は、被告は割合遅起きであるが、前記の被告の子らが学校へ行き、また午前七、八時頃からは前記の営業を始めるので、これに応じて原告は朝食の準備をしなければならないため、遅起はできず、殊に友子が名古屋市所在の高等学校へ通うようになつてからは、午前六時半頃に家を出るようになつたため、原告は相当の早起きをしなければならなくなつた。

(四)  被告の長男嘉利は原、被告が結婚した当時既に一八歳になつており、被告が原告と再婚することをこころよく思つていなかつたため、原、被告が結婚した当初から原告になじまず、原告に呼びかけるときも「おい」と言うのを常とし、智子、加代子、友子らは、原、被告が結婚した当初は未だ幼少であり、原告との間に特段の問題もなかつたが、長ずるにしたがつて次第に原告との間がしつくりしなくなり、原告に話しかけるのにも「お母さん」などの呼びかけの言葉は使わず、直接用件のみを言うようになり、第三者との間では原告のことを「志のさん」と言つていた。これに対して、原告は被告を「お父さん」と呼ぶとともに、被告が原告を「お母さん」と呼び、かつ被告の子らも原告を「お母さん」と呼ぶようにさせるよう再三頼んだが、被告はときに原告がいないところで子に原告を「お母さん」と呼ぶよう注意するのみで、みずからも原告を「お母さん」とは呼ばず、子らが原告を「お母さん」と呼ぶようにするための積極的な工夫、努力は何もしなかつた。また昭和三二年一一月に加代子が、昭和三三年四月に智子が、それぞれ結婚したが、原告は右両名の結婚について、いずれもその相手の選択、仕度等について全く相談にもあずからず、仕度については主として被告の弟嘉貞の妻加藤とみ子が当り、式も被告が出席しないで行われた。

(五)  被告は金銭の使用については相当口やかましく、原告が衣、食等の日常の家事処理上必要とする金銭の使用についても原告に一任せず、かつ総てその使途を明らかにした記張を要求していたのみでなく、原、被告間の長女幸子が出生した後、原告が四回位妊娠中絶を行つたために要した費用は総て原告の実家に負担させ、また原告が名古屋市の実家を訪れる時にも、必要な交通費以外には殆んど金銭を与えなかつたし、原告と二人で外出、旅行し、あるいは映画を見るなどによつて原告に慰安を与えるということをしたこともなかつた。

(六)  被告の弟嘉貞夫婦らは被告の家の近所に住んでおり、被告の先妻昌枝と嘉貞の妻とみ子が従姉妹であつたことなどから、被告およびその先妻の子らと、嘉貞の家族、および昌枝、とみ子の実家等の相互の間では親しく交際をしており、昌枝、とみ子の実家およびその親戚の者をしばしば被告の持山の松茸狩りに招待し、また昭和三二年二月に被告の亡父、亡母、先妻の法要を行つた際には、右の者らは被告の自家用車で駅まで送迎するなどして優遇したのに対して、原告の実家関係の者と被告および先妻の子らとの関係は極めて疎遠であり、原告の弟が被告の家に来ても被告の子らは殆ど口も利かず、また原告の懇請によつて漸く昭和三〇年一〇月に原告の実家関係者を松茸狩に招待しながら、山番の者に料金を取らせるなどの冷遇をした。

(七)  昭和二五年一一月頃、原告が被告の子の衣類を盗んだという疑を被告らからかけられたことから、原告は実家に帰えり、昭和二六年五月、津家庭裁判所に被告との離婚の調停を申立てたが、結局婚姻を継続する旨の調停が成立し、同月末頃約七箇月間の別居生活をやめて、原告は被告方へ戻り、右調停成立の際の約束によつて、被告から原告と幸子に対して、被告らが現在住居として使用している桑名郡多度町大字香取字元割○番地所在の木造瓦葺二階建居宅建坪二六坪四合、二階四坪五合が贈与された。

(八)  昭和三三年六月一八日、妊娠中絶後であつた原告が被告方で就床静養していた際、夕食の準備をしていた友子が副食にしようと思つたソーセージがなくなつていたことから、同人と友子との間に口論が起り、さらにこれに嘉利が加わり、遂に嘉利が蠅たたき、平手等で原告の顔面等を数回殴打し、原告も食器類を投げつけるなどの騒ぎとなり、被告、嘉貞らに制止されておさまつたが、原告は同夜弟近野進らを呼び寄せ、若干の荷物を持つて幸子とともに被告方を出、数日間名古屋市内の病院で入院生活をした後、肩書住居の実家へ帰えり、以来近野進の営業の手伝をしながら幸子とともに同所で生活し、その後二、三回にわたつて、被告自身から、および山田憲一を通じて、被告の先妻の子とは別居することにするから被告のところへ戻つてはしいとの申出を受けたが、これを拒絶して現在に至つている。

以上のように認められるのであり、前掲記の各証人の証言、および各本人の供述のうち、右認定に反する部分は、いずれも前掲記の他の証人の証言、本人の供述に照らすとたやすく信用することはできない。

右認定の事実からすると、原告は先妻との間の四子を抱えて肥料販売業を営んでいた被告と昭和二三年四月二日に結婚し、被告方において被告および先妻の子四名と同居し、家族および雇人の日常生活に必要な家事、ならびに原、被告の結婚後に再開された被告の日用品雑貨販売業の販売、店番等を主となつて行い、これらの仕事を一応大過なく処理して来たのであるが、被告の先妻の子はいずれも原告になじもうとせず、年を経るにしたがつてかえつて原告と対立し、原告を疎外するようになり、被告も右のような状態にあることを十分知りながらこれを改善するための積極的な努力は何もしないで放置してきたのみでなく、被告の一家の日常の家事のほか被告の営業の一部をも担当していた原告の精神的、肉体的苦労をいたわり、原告の一家の主婦たる立場を認めて日常の家事処理については相当な範囲で原告の自由な裁量に任かせ、一家の重要な問題については原告の意見もきき、その協力を求めるなどの配慮に全く欠けていたため、原告は被告と結婚以来十年間余りに亘つて、被告の家庭内においては精神的に弧立した生活をさせられて来たものであり、このため現在においては、原告は被告に対して夫婦としての愛情を全く失い、被告の家庭で生活することは単に家事、営業労働者として酷使されるに過ぎないと信ずるに至つているのであり、原告が右のように信ずるに至つたことが、被告、およびその先妻の子らの十年間余りに亘る前記のような原告に対する所遇に因るものである以上、今後原、被告が夫婦として相互の愛情を基礎とする協同生活を営むことを期待することは殆ど不可能であるということができるから、原、被告間にはその婚姻を継続し難い重大な事由があるといわなければならない。そして証人加藤嘉貞、同加藤とみ子、同加藤友子の各証言、原被告各本人尋問の結果によると、原告にも被告の後妻として、また一家の主婦として至らない点があり、これが被告の家庭において原告が前記のような所遇を受けるようになつた一因をなしていることをうかがうことができるけれども、しかし前記認定の事実からすれば、その主たる責任は被告にあるということができる。したがつて、被告との離婚を求める原告の請求は理由がある。

原、被告の長女幸子の親権者は、前記認定の幸子の生年月日、被告の家庭内の状態、昭和三三年六月以降幸子が原告のもとで養育されていることなどを合わせて考えると、原告と定めるのが相当と考える。

そこで次に、原告の慰謝料、財産分与請求について考えてみる。

離婚に際して当事者の一方から相手方になされるべき財産の分与は、夫婦共同生活中の共通財産の清算、離婚することを止むなくした有責配偶者から相手方配偶者に対する離婚そのものに因る損害の賠償、離婚後の相手方配偶者の生活の扶養の三つの内容を含むものと考えるのが相当であり、右のうち離婚そのものに因る損害の賠償を強いて不法行為に因る損害賠償であると構成したうえ、これを財産分与とは別個に請求すべきものとする必要はないと考える。そして原告が本件訴において請求している慰謝料も、その主張事実、およびその主張の仕方からすると、原告が被告との離婚を余儀なくさせられたため離婚すること自体に因つて蒙るべき損害の賠償を求めているものと解されるのであつて、これとは別の、被告の個々の特定の行為が原告に対する不法行為(本来の意味での)であり、これによつて原告が蒙つた精神的苦痛に対する損害賠償としての慰謝料の支払いを求めているものとは解されないのである。

右に述べたような意味のものとして、被告から原告になされるべき財産分与の額、方法について考える。

いずれも真正に作成されたことに争いのない甲第一、二号証、および原、被告各本人尋問の結果、ならびに鑑定人中村富三郎の鑑定の結果を合わせて考えると次の事実が認められる。

被告は宅地六筆、田四二筆、畑一五筆、山林三筆、原野一筆、家屋五棟の不動産を所有しており(公簿上の所有名義は一部被告の被相続人加藤太郎のままとなつているもの、被告と被告の弟加藤嘉貞との共有となつているものがある)、その時価は合計概ね四百八十万円位であるが、右不動産はいずれも昭和一六年五月六日被告の父太郎の死亡により、被告が家督相続によつて取得したもので、原、被告が結婚した後に取得したものではない。原、被告が結婚してから昭和三三年六月に別居するまでの間(昭和二五年一一月頃から約七箇月間別居していた間を除く)の原告、および長女幸子の生活費は、主として被告が営んでいる肥料、日用品雑貨等の販売の営業による収入によつてまかなわれたものであり、現在においても被告およびその家族は右の営業による収入によつて生活している。昭和三三年六月一八日に原告が被告と別居するようになつてからは、被告は原告、および長女幸子の生活費は何も負担していない。原告は中流家庭に育ち、旧制高等女学校を卒業したものであり、婚姻は被告との婚姻が初めてであつた。

右のように認められるのであつて、右認定を妨げるに足りる証拠はない。

右認定の事実と前記認定の事実、およびこれらの事実から推論される前記のとおりの原、被告間の婚姻破綻の原因、および原、被告双方の責任の程度、ならびに原、被告双方の資産、収入の程度、原、被告間の長女幸子は原告のもとで養育されなければならないことなど、諸般の事情を合わせて考えると、被告は原告に対して財産分与として現金七十万円の支払いをするのが相当であると考える。

原告は、財産分与として支払いを求める金員に対する、本件訴状が被告に送達された日の翌日である昭和三四年二月一九日から完済に至るまでの年五分の割合による遅延損害金の支払いを求めているが、財産分与請求権は原、被告の離婚(訴訟上の離婚については離婚の判決確定)によつて発生するものであるから、遅延損害金はこの判決が確定した日の翌日から発生するものといわなければならないから、原告の遅延損害金請求のうち右の日より前の部分は理由がない。また原告は財産分与として支払われるべき金員について仮執行の宣言を求めているが、右と同じ理由によつて仮執行の宣言を付することはできないものである。

以上のとおりであるから、原告の請求中、被告との離婚を求める請求、および財産分与(慰謝料を含む)として金員の支払いを求める請求は金七十万円、およびこれに対する本判決確定の日の翌日から完済に至るまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める限度においては理由があるからこれを認容し、原、被告間の長女幸子の親権者を原告と定め、原告のその余の請求は理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担について民事訴訟法第九二条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 寺井忠)

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